現在、気功治療院白樺においては、依頼者の方々の約8割に症状の治癒または明らかな軽減が見られる。
反面、残り約2割においてはどれだけ治療時間を延ばそうが、どれだけ治療回数を重ねようが、症状がうんともすんとも動かない。
なぜこのようなことが起きるのか?
今回はこの疑問、なかんずく私が長い間抱いている謎に対する仮説を一つ述べておく。
難病であるから治る、治らない、ということでは全くなさそうである。
難病の依頼者が10人いれば、そのうち約8人はちゃんと症状が動く。
症状が全く動かない約2割の中には、本来私が得意とするはずの症状も含まれる。
よって、症状の種類が治療結果を左右する原因ではないと思われる。
ではなぜ、約2割に対して私の治療が全く効かないのか?
その仮説の一つとなるのがカルマ論である。
人間、自分が蒔いた種は必ず自分で刈り取らなければならない。
つはりは、良い行いをすれば良いことが返ってくるし、悪い行いをすれば悪いことが返ってくる。
良い思いを抱けば良いことが起き、悪い思いを抱けば程度に応じて悪いことが起きる。
カルマとはそういう単純な話である。
よって、長い目で見れば、善人が損をすることもなければ悪人が得をすることもない。
これは神の摂理、天の法則であり、重力と同様に何人もその法から逃れることはできない。
もし、ある人物が不当に得をしているように見えるならば、あなたはその人物の真の姿を表面的なイメージだけで判断しているか、あるいは、その人物が過去や前世において相当に得を積んだからである。
反対もまたしかり。
カルマという宇宙の真理が疎かにされがちなのは、蒔いた種を刈るまでには総じて時間的なラグがあり、また、どの方面から返ってくるかも全くわからないという点にある。
喧嘩のように殴った相手から直ぐに殴り返されるのであれば話は簡単だが、若気の至りで行った悪事が晩年の病となって現れることもあれば来世に繰り越されることもある。
人生におけるカルマの糸の絡み合いはあまりに複雑であるため、人はその時々によって、
「運が良かった」
「運が悪かった」
あるいは、
「偶然そうなった」
と結果論的に捉えるしかない。
シルバー・バーチの教えによれば、木の葉一枚落ちるのにも天の摂理が働いているという。
確かにそうだろう。
偶然のように見えるサイコロの出目も、サイコロを振る位置、力加減、角度、高さ、風、地面の凹凸...等々、全ての条件を同じにすれば、毎回必ず同じ目が出る。
出目に至るまでの諸要素があまりに複雑なため、過程の分析を放棄して偶然と呼んでいるに過ぎない。
私たちの人生において起こる出来事もサイコロの出目と同じで、決して偶然ではない。
カルマとはそういうことである。
負のカルマを原因とする症状の場合、過去に蒔いた種を病苦という代償によってまだ刈り取っていなければ、何人もその症状を治癒し得ない。
もしそれが可能であるならば、人間の行いが神の摂理を覆すことになるが、それは絶対にあり得ない。
よって、症状が全く動かない約2割の方々は病苦によって過去のカルマを刈り取っている最中にあるのではないか?
というのが一つの仮説である。
最も、これは私独自の仮説ということではなく、各種書物の中ではっきりとそう書かれている。
過去の経験上、
「私もそう思わなくもない」
という意味においてあくまで仮説という表現にしている。
「思わなくもない」というあやふやな表現なのは、もし私がその考えに追随してしまえば、約2割の方々に対してもう私は何もすることがなくなる。
この先々、今のレベルの治療を続けていけばそれで良いということになる。
治療家としてそれで許される訳がない。
そもそも現状維持とはすなわち退化を意味する。
よって、心の中ではカルマ説に納得しつつも、行動では否定し続けている。
すなわち、さらに治癒率を高めるべく日々研鑽している。
追記
この世に偶然など何一つない。
カルマ的には、宝くじに当たるのは確率の問題ではなく必然の結果だということになる。
当たる人はたった一枚買うだけで当たるし、当たらない人は何万枚買おうが当たらない。
よって、カルマ的には、年に何度か発売されるジャンボと名の付く宝くじを一枚だけ購入されることをすすめておきます。
宝くじの場合、たった一枚でいいから購入して天に対して手を挙げておかないと、天の摂理による恩恵に預かることができない。
宝くじは期待値が1を切っているので、二枚以上買う必要はありません。
一枚で十分。
更に追記
宝くじに当たったからといって喜んでばかりもいられない。
過去、一等当選者の多くが人生を狂わせたと言われている。
よって、天の摂理は罰として当選させる場合もあるようだ。