「なぜあなたは気功治療家になったのか?」

と、問われれば、

「気が付けばこうなっていた」

というのが正直なところ。

気功治療家になろうと目指した結果、今の私があるわけではない。

過去の変遷を遡れば、私の気功治療家としての源流は父の時代劇好きにあったと言える。

というのも...

父は大の時代劇好きで、時間になると子供の私が観たい番組は完全に無視され、問答無用で時代劇にチャンネルが変えられた。

すねる私をかえりみることもなく、親父は楽しそうに時代劇を見たものだ。

「こんなん、どこがおもろいんや...」

と、怒りやら悲しみやら、時に憎しみやらいろんな感情が渦を巻いたが、そんな子供の私でも勝新太郎の座頭市だけはなぜか大好きだった。

強そうな者が強いのは当たり前。

弱そうな者が実は強い、そんなところが子供心のツボにはまったのかもしれない。

座頭市の場合は盲目であるので、めちゃくちゃ弱そうな者が実はめちゃくちゃ強い、ということになる。

卑屈なまでの物腰の低さ、一旦仕込みを抜いた時の鬼のような強さ。

そのギャップにやられた。

居合い抜きのシーンには特にしびれた。

気が付けばアニメやジャイアンツ戦よりも座頭市の方が遙かに楽しみになっていた。

そこで単純な私は、

「俺は将来座頭市になろう」

などと思うようになっていた。

小学三年生の頃である。

座頭市のような仕込み杖を日常的に持ち歩くわけにはいかないので、その代わりとして空手道場に通い始めたのもこの頃だ。

今でも不思議なのだが、座頭市への憧れはその後も消えることなく長く保たれ、私は何の迷いもなく按摩マッサージ指圧師になるべく、京都仏眼鍼灸理療専門学校へと進んだ。

座頭市と同じ流しの按摩師になり、卒業したら店は持たずに毎日違う町を歩いて客を得ようと思った。

夜は夜で町内一帯を按摩笛を吹きながら歩くつもり。

たまには湯治場などの温泉地に遠出するのも悪くない。

我ながら何とも風情とロマンのある仕事ではないか、真剣にそう思ったものだ。

専門学校の講師やクラス仲間にこの計画というか夢を話すと、だいたい絶句するか、

せいぜい、

「今時、珍しおすなあ...」

といった反応。

しかしながら、ただ座頭市のように按摩しながらあちこち町を流すだけでは面白くない。

つまりは、ただ気持ち良かったとか、コリが取れたとか、単に慰安娯楽で金銭をもらうだけではなく、どこか調子の悪い箇所があれば治癒に向かうような、そんな施術がしたいと、専門学校であれこれ学ぶ内に思うようになった。

私は単に按摩マッサージ指圧師の国家資格が欲しいだけで入学したが、そもそも鍼灸按摩の専門学校というのは法律で定めるところの医業類似行為により人を癒す技術を習得する場である。

解剖学や生理学、臨床医学などを学ぶうちに治療家としての自覚も芽生え始めた。

そこでいろいろと調べてみれば、治療が目的の手技であれば按摩よりも指圧の方が良いらしいということで、そこからは指圧関連の本を熱心に読みあさった。

とりわけ経絡指圧の創始者である増永静人師の著書には大いに感化された。

それが元となり、自分なりに経絡や気の研究も始めた。

今では定型の施術しかできないようだが、私の時代、臨床実習時間は自分の好きなスタイルで自由に施術することができた。

ほとんどの同級生がマッサージや按摩を行う中、私のような極めて少数派の者が指圧、とりわけ私の場合、専門学校では全く教えていない経絡指圧を勝手に行った。

そうこうしている内、

「二十年来の腰痛が楽になった」

「右肩が上がるようになった」

などと患者から言われることが増えてきた。

臨床実習では珍しいことである。

そのようなことが続き、私は治療家として感謝される喜びを知った。

そして、

「経絡指圧を極めて患者の期待に最大限応える!!」

と、己に誓った。

専門学校卒業後、経絡指圧師としてある程度のレベルには達したと思う。

しかし、私は更なる高み、というよりも究極を目指した。

もっと、もっと...

そうこうしている内に経絡指圧と気功が組み合わさった経絡気功指圧という己が開拓した新ジャンルで施術するようになっていた。

患者からの反応は上々。

けれども、もっと、もっと...

やがて私は患者の体表において反応の出ているツボを見付け、そのツボに対して適切なホメオパシー用のレメディーを貼り付けるという、これまた世界初の治療法となる経絡ホメオパシー療法を見い出していた。

治療結果はすこぶる良かった。

ああ、遂に来るところまで来たか...そう思った。

シールを貼る以外全く患者の身体に触れることがないので、こうなるともはや手技とは言えない。

ここに来てついに私は座頭市から脱却したことになる。

それはそれで良かったのだが、一つ問題があった。

反応の出ているツボを見付けてペタッと貼る...という治療スタイルがあまりにも簡単過ぎた。

楽して治ってお金を頂けるのであるから、これこそが理想型と言えなくはないのだが、治療をしていて心の芯から楽しめないというのは男一生の仕事として何かしら問題があると思った。

もっと、もっと...と更に日々試行錯誤を継続しているうち、気が付けば私も三十歳を越えていた。

ここにきて私は患者の反応しているツボに対し、ホメオパシー用のレメディーではなく、その代わりに私の頭の中で作ったレメディーを貼り付けるようになった。

もちろんこれは物質としてのレメディーではない。

気のレメディーである。

あくまで東洋医学をベースとしているので、私はこれも便宜上気功と称している。

やがて、患者が目の前にいようが離れていようが、効果が全く同じであるということが知れた。

遠隔気功の始まりである。

なぜこのような不思議な現象が起こるのか?

それが知りたくてあれこれ勉強した。

とりわけ熱中したのは量子論。

大学の講義を受けたりもした。

そうこうしている内に気が付けば患者の邪気が見える(診える)ようになっていた。

邪気こそが病因であり、それを除けば症状が軽減、消失することがわかった。

その結果、気のレメディーを貼る代わりに邪気を抜くスタイルの治療になった。

補法から瀉法(しゃほう)、つまりは補う治療から抜く治療、なかんずく与える治療から無にする治療への大転換である。

これこそが半世紀を折り返した今、五十五歳(2020年現在)になった私の治療法である。

今の治療レベルまで来るのに結構な歳月を要してしまったものだと思う。

否、これだけ長い年月を精進しなければ到底今のレベルには到達できなかったと言うべきか。

こうして座頭市に憧れた少年は気が付けば世界的にも珍しい瀉法(しゃほう)による気功治療家/遠隔気功治療家になっていたというわけ。

今後、職業が変わることはないだろうが、スタイルが変わることは大いにあり得る。

再び経絡ホメオパシー療法に戻ることがあるかもしれないし、今の時点では想像だにし得ない治療法を行っているのかもしれない。

どのように変遷しようと、今までのようにただ天に導かれるままに。